リレーエッセイ

第20回 - 1999.02.01
ロシアの常識
――理性の混乱か混乱の理性か――

大矢温

 混乱期のロシアしか知らないせいだろうか、私にとってロシアは謎に満ちている。たとえば、ロシアで日本的な常識から逸脱した事態に遭遇した場合を考えてみよう。そんなとき、ほんのちょっとの逸脱であっても、私の日常的な常識体系は音を立てて崩れ去ってしまう。だって、ロシアが混乱しているからそんな異常事態が起こっているのか、あるいは、混乱にも関わらずロシアだから日本とは違った常識なのか、どうやって判断しろというのだろうか。たしかに、致命的な重要性を持たない問題であれば、このような常識の座標軸の揺らぎに身を任せ、ロシア的解決を待つ、というのも「ロシア遊び」の醍醐味ではある。ロシア流解決に身を任せても、案外、啓蒙によって導かれるであろう結果と同じ結果に、ふっ、と突然行き当たる場合も多々あるからだ。また一方で研究者の良心として、ロシアを理性で理解しようとする試みも怠ってはならないと思う。ただし、こちらは「ロシア遊び」ではなくて「ロシア学」ということになろうか。

 「学」というほどのことではないが、私はいまだに解決できない問題を抱えている。93年の冬だっただろうか、当時モスクワ大学の寮に住んでいた私は、やはり当時在外研究でモスクワに住んでいたS氏の自宅に夕食に招かれた。そこで、S氏からにわかには信じがたい話を聞かされたのだ。なんと、モスクワの市街電車に食堂車がついている、というのだ。しかもそこではウォッカとつまみが出され、軽い食事までできるらしい。さらにウォッカを注文すれば乗車賃は無料だという。奥さんもそれを見たと証言する。かなり酔いが回った頭ではあったが、常識的に判断してそんなことがあるわけがない。第一、朝っぱらからそんな食堂車に出くわして宴会にでもなった日には、仕事どころではなくなってしまうではないか。言下に私はそんな馬鹿なことあるわけない、と断言した。異国生活の退屈しのぎに家族ぐるみで私をからかっているにちがいない、と思ったのだった。とはいえ、「食堂電車」の話はなかなか私の頭から消えなかった。親切に招待してくれたS氏を頭から疑ったことに対する道義的懺愧の念もさることながら、なによりも、荒廃したモスクワの町並みをレースのカーテン越しに眺めながら優雅に酒を飲む、という「食堂電車」のイメージが私のファンタジーをひどく刺激したのだった。

モスクワを走る市街電車。今世紀初頭
tram

 来る日も来る日も大学駅の停車場で私は待った。だが、いつまでたっても「食堂電車」はやってこなかった。十月広場近くの操車場をのぞきにいったことさえあったが、そこにも「食堂電車」はいなかった。ついに我慢できなくなって、停車所で人の良さそうなおばちゃんをつかまえて聞いてみた。「すみません、ここを食堂車が走っていると聞いたのですが……」おばちゃんの2つの瞳孔は驚愕のあまりみるみる拡大し、「そこではウォッカが飲めるらしいのですが……」と私が言い終わらないうちに猪八戒のような上向きの巨大な鼻孔から最大限の侮辱をこめて「フン」と一息吐くとさっさとあっちへ行ってしまった。とはいえ、このことから「食堂電車」の話がロシア人にとっても非常識な話であることがわかった。それ以来私は、みだりにこの話を口にすることを自らに禁じた。異常者と間違われるのを防ぐためだ。

 ところが最近私はこの積年の謎に対する解決の手がかりらしきものをつかんだ。それは去年の3月に学生の引率でモスクワに行ったときのことだ。例によって深酒をした私はのどの渇きをおぼえて明け方に目を覚ましたのだった。何気なく窓の外を見ると、ちょうど暗闇の中、粉雪の彼方から路面電車がやってくるところだった。暖かそうな車窓の光が舞い上がる粉雪に反射して、とてもこの世のものとも思えないほどの美しさにみとれていると、やがて19世紀末のデザインで「アンヌィ」などと看板を掲げた路面電車が姿を現した。まちがいない。「食堂電車」だ! 行き先表示はない。どこへ行くのだろう? そんなことよりまず証拠写真を撮らなければ……いそいで部屋にとって返してカメラを探しているうちに電車の音は遠ざかり、私もまた深い眠りについてしまった。

 再び目を覚ましたのは昼近くになってからだった。明け方見たイメージが消えないうちに私は興奮気味に手当たり次第に人を捕まえては語りはじめた。永年の謎が解けたうれしさを。粉雪を舞い揚げながら走る食堂電車の美しさを。瞼に焼き付いたイメージをたどりながら今朝の情景を再現しながら話し続けた。食堂電車の窓の光を、その暖かそうな光に包まれて酒を飲む乗客の優雅さを。そしてその乗客は……「あっ私だった!」

 窓の外ではいつもと変わらぬ昼下がりのシャブロフカ通りを見慣れた路面電車がゴトゴトと通りすぎて行くところだった……


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