リレーエッセイ

第18回 - 1998.10.08
化学者メンデレーエフの息子と明治日本

梶雅範

 中学校や高校の理科や化学の実験室の壁に、100余りの化学元素が整然と並べられた表が貼られていたのを覚えている人がいるだろう。これを周期表というが、この表の原型を組み立て、元素をその原子量の順に並べたときに(現在は原子番号の順だが、当時はその考え方はまだなかった)元素の諸性質が周期的に繰り返す(周期律)ことを初めて指摘したのが、ロシアの化学者ドゥミートリー・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ(1834-1907)だ。その発見は1869年のことである。1869年といえば、日本では明治2年に当たるが、この19世紀ロシアを代表する化学者のメンデレーエフには、意外にも日本と私的なつながりがあったことを書いてみたい。

 メンデレーエフは二回結婚している。最初の結婚で一男・二女が生まれ、離婚後の二回目の結婚では二男・二女が生まれた。
 最初の最初の結婚相手は、メンデレーエフと同じ西シベリアのトボリスク生まれで、フェオーズヴァ・ニキーチチナ・レチショーヴァ(1828-1905)といい、メンデレーエフより6歳年上であった。結婚してから一年後、1863年3月に最初の女の子が生まれ、マリーヤと名付けられたが、生後6カ月に達しないうちに亡くなった。成人したのは、65年1月2日(ロシア暦、以下新暦と断らない限りロシア暦による日付、新暦に直すには12日を足す)に生まれた長男ヴラジーミルと68年3月16日に生まれた次女のオリガの二人であった。

 ヴラジーミルは、海軍兵学校を卒業して海軍に勤めた。1898年に33歳で海軍を退役して陸に上がり、大蔵省付属の商船学校の視学官として勤務することになった。しかし、その年の暮れ、インフルエンザにかかり、もともと胸が弱かったヴラジーミルは、床にふせって間もなく肺炎になり急死した。12月19日のことである。
 無理もないことだが、メンデレーエフの嘆きは大きかった。息子が準備していた『ケルチ海峡のダムによってアゾフ海の水位を上げる計画』の稿をまとめ、序文を書いて翌年出版した。序文の日付は、息子の死の一週間後の12月23日になっており、早急に息子の遺稿をまとめたメンデレーエフの心情が察せられる。
 ヴラジーミルは、死の2年前、1896年1月14日に画家キリール・レーモフの娘、ヴァルヴァーラと結婚している。二人の間には、ドゥミートリイというメンデレーエフと同じ名前の息子がいたが、夭折したという。
 これだけなら、単にメンデレーエフには若くして死んだ一人の息子がいたというだけの話であろうが、メンデレーエフは、この息子ヴラジーミルを通してその私的生活の場面で日本とつながりを持つことになったのである。

 ロシア帝国の最後の皇帝ニコライ二世は、皇太子時代に一度日本を訪問している。1891年(明治24年)4月末(新暦)のことで、訪日したニコライ皇太子に対して警備の日本人警官津田三蔵が切りつけて、皇太子が負傷するという有名な大津事件が起きたのはまさにこのときである。
 メンデレーエフの息子のヴラジーミルは、この皇太子が、地中海、スエズ、インド、シンガポール、インドネシア、ベトナム、香港、そして日本(長崎、鹿児島、神戸、京都、大津)とアジア諸国の訪問旅行のために乗艦したロシア戦艦アゾフ記念号の乗り組み士官、ヴラジーミル・メンデレーエフ海軍少尉(8月30日付けで大尉に昇進)として、ニコライとともに訪日しているのである。
 妹オリガの回想録によれば、将来を誓った女性に去られ傷心のヴラジーミルを心配したメンデレーエフは、息子が立ち直るために、つてを使って息子をニコライ皇太子の東洋訪問の一行に加えてもらえるように運動したという。そのおかげで、ヴラジーミルは、皇太子の乗船する旗艦アゾフ記念号の乗り組み士官になることができたのである。
 ロシアのサンクト・ペテルブルグ国立大学付属メンデレーエフ博物館文書館(以下ではメンデレーエフ博物館と呼ぶ)には、ヴラジーミルが写ったこのときのものと思われる写真が何枚か保存されている。写真1は、アゾフ記念号の乗組員の集合写真である。前から二列目中央(▲)がニコライ皇太子であり、前列右はじ(△)にヴラジーミルが写っている。  写真2は、この日本訪問時に撮ったものと思われ、右中央の▲の位置にヴラジーミルが写っている。写真で見ると、彼はロシア人としては小柄であったことがわかる。

                    ▲ニコライ皇太子(第二列中央)   △ヴラジーミル
写真1
Nikolai and Vladimir
                    ▲ヴラジーミル
写真2
Vladimir

 さて、大津事件が起こったのは5月11日(新暦)のことであるが、当時の日本側の記録には、5月14日、事件の起こった場所を撮影したいとの要望がロシア側から出され、翌15日午後にロシア側から二人の海軍士官と水兵二人が、日本側の宮内省外事課の通訳とともに事件現場に来たという記述がある。その士官の一人の名前が「海軍大尉 メンデレーフ」となっているのである。ある本によれば、ヴラジーミルは、写真にこっていて、プロはだしの腕前だったというし、彼が海軍当局に提出した「海軍での軍務のための写真術の利用について」という報告書も残っているから、一行に加わっていたヴラジーミルにこうした仕事が回ってきても不思議はない。

 このときヴラジーミルがとった写真はどこに行ったかわからないが、このロシア側の撮影の様子を撮した地元大津の写真師による写真が残っており、現在、大津市歴史博物館に保管されている。

 ところで、この航海でヴラジーミルは、長崎の日本人女性と知り合い、子供をもうけたという説がある。ロシアの海洋作家V. G. グザーノフ氏によるものである。ニコライ一行は、1891年4月27日(新暦)に長崎に入港し、5月5日まで滞在した。この年、新暦5月3日はロシア正教の復活祭に当たり、復活祭までの一週間は正式行事は行わないため、正式の上陸は5月4日であった。5月5日の夕刻、ニコライとともにヴラジーミルも乗せた旗艦アゾフ記念号は、長崎を出港し、次の訪問地、鹿児島に向かった。このわずかの上陸の間に知り合い契りを結んだ女性が妊娠したというのである。この説には、以下に見るように少し無理がある。
 ヴラジーミルが日本でもうけたという子供については、これまで日本でもロシアでもほとんど注目されたことはなかったが、1947年に出版された回想録のなかで、ヴラジーミルの妹オリガが触れている。それは、オリガの回想録『メンデレーエフとその家族』の中の次のような一節である。

 「日本への最初の航海の後、彼[ヴラジーミル]が不在のうちに、かの地で日本人妻に彼の娘が生まれた。彼は、外国人船員の例にならって、その女性と港に滞在している期間だけの結婚契約を結んでいた。ヴォロージャ[ヴラジーミルの愛称]が、その子供をどのように思っていたかは、私にはわからない。しかし、私の父[すなわち化学者メンデレーエフ]は、その日本人の母親に、子供の養育費として、毎月一定の金額を送っていた。その娘と母親は、その後、東京の地震の折、亡くなった。それは、すでにヴォロージャの死後のことだ」

 オリガの回想を裏付けるような文書がメンデレーエフ博物館にはある。オリガのいう「日本人妻」の手紙である。手紙は長崎からロシアのペテルブルグに宛てられたもので、ロシア語で書かれている。手紙は、「日本人妻」が日本語で書いたかしゃべったことを、「A. シガ」という人物がロシア語に訳したものである。博物館の学芸員が手書きからタイプにおこしたものには、より自然なロシア語の表現を注記している部分があることからもわかるように、ロシア人の書いたロシア語ではないから、シガはおそらく日本人だと思われるが、この人物についてはあとで述べる。

 博物館にあるのは、二通で、一通目はヴラジーミル宛、二通目は、メンデレーエフ宛である。つぎに、それらの訳文を掲げる。ともに、すでに博物館の学芸員が解読し、タイプでおこしている。ここでは、そのタイプ文から訳出した。

 第一通目は、ヴラジーミル宛のもので、1893年4月6/18日と露暦と新暦、両方の日付が入っている。本文中でも、日付は二つの暦で書かれている。

長崎 
 親愛なるわたしのヴォロージャ

 一日千秋の思いでおまえ様の手紙を待っていました。やっと手紙を受け取ったときには、有頂天になって手紙に飛びつかんがばかりでした。丁度折良く、シガ様が私のうちにおいでになり、おまえ様の手紙をわたしに事細かに読んで聞かせてくれました。おまえ様が元気だと知って安心いたしました。

 わたしは、1月16/28日午後10時に女の子を産みました。神様のおかげで、子供は健康です。わたしは、富士山にあやかっておフジ[お富士?]と名付けました。子供が生まれたのを聞いて、翌日、「ヴィーチャシ」号からルトーニンさんがベンゴロ[弁五郎?、後述のロティの「お菊さん」に出てくる通訳兼ポン引きのカングルウ(勘五郎)のような人物か(?)]と、ペトロフさんがエベルガルドさんやおトクさん[お徳さん?]と、「ボーブル」号の艦長(O. A. エンクヴィスト)がおマツ[お松?]とそれぞれ連れだって、わたしを見舞ってくれました。さらに多くの知人からおフジは、祝いの品を受け取りました。可愛いわたしたちのおフジを見て、旦那衆は、おフジがおまえ様によく似ていて、まるで「瓜二つ」([日本語で]「瓜を二つに割りし如し」と申しますが、これはつまりロシア語でдве капли воды[水の二滴]ということです)だと口々に申しております。これでわたしはもうすっかり安心しました。というのもおまえ様のところでたてられた暗い噂を跡形もなく吹き払ってくれるでしょうから。

 ところで、シガさんのお骨折りのおかげて、おまえ様が送った21円51銭をおコウさん[お香さん?]から受け取りました。どうもありがとうございました。わたしはなんと不幸せでしょう。子供を産む前の日、つまり1月15/27日にわたしのおっか様がなくなってしまったのです。おまえ様が日本を離れてから誰からもお金を受け取りませんでした。その間、おっか様は病気で寝たきりで、ついには[死んで]埋葬しなければならず、加えて娘が生まれました。どれもこれもお金が入り用でした。それなのにわたしにはお金を借りる当てがありません。それで、仕方なくペトロフさんに頼みました。おそらくペトロフさんにも自由になるお金はなかったのだと思います。というのも、ペトロフさんは借金して三回に渡ってわたしに10円ずつくれたからです。そのほかに、10円を娘に贈ってくれました。つまりはペトロフさんから全部で40円受け取ったことになります。

 おまえ様が長崎を後にしてから自分の時計や指輪その他の品を抵当に、知人から200円以上借りました。おまえ様から一度も手紙を受け取らず、どんなに苦しんだかとても説明できません。日本では、赤ん坊が生まれると赤子のためにお祝いをすることになっています。赤ん坊に新しい着物を着せ、親戚や知り合いといっしょに神社にお参りし、親類縁者を呼んで御馳走します。しかし、これらは皆お金がかかり、お金を持たないわたしは、今日までそうしたことができません。それゆえ、知り合いの手前恥ずかしくてなりません。おまえ様の娘ができたので、他の人のところにお嫁に行けませんし行きたくもありません。おっか様が死んだ以上はおまえ様を待つつもりです。おっか様が亡くなったので、わたしたちが住んでいる家を返さなければならず、住む家を[これから]買わなければなりません。

 娘とともにおまえ様とおまえ様からの便りを待っています。できるだけ早くわたしたちの娘の写真をおまえ様に送りたいと思っていますが、まだできていません。次の手紙ときにお送りします。わたしに手紙を書くときかお金を送るときには、いつもシガさんを通して送ってください。娘とともにおまえ様の健康をお祈りします。わたしたちを忘れないようにお祈りします。なんといってもおまえ様はわたしたちの力の源ですから。

おまえ様の忠実なタカ
A. シガ訳
長崎 1893年4月6/18日[新暦18日、露暦で6日]

 第二の手紙は、これまで知られていなかったものである。ヴラジーミルと日本の関係について最近のグザーノフのエッセイも、第一の手紙は引用しているが、第二の手紙については触れていない。

 この手紙は、1983年6月に元の所有者の未亡人からメンデレーエフ博物館に寄贈されたものである。未亡人の手紙によれば、亡くなった亡夫のルジョンスニツキイ氏が、第二次大戦前、メンデレーエフの二番目の夫人アンナ・イヴァーノヴナを手伝って、親族関係を含めた私的な文書の整理したお礼としてこの第二の手紙を贈られたという。ただし、そのときアンナ夫人から手紙を公表しないように約束させられたという。アンナ夫人は1942年に亡くなっており、ルジョンスニツキイ氏も1983年3月5日に亡くなったので、氏の未亡人は、手紙がメンデレーエフの「生涯の一頁を明らかにすることを希望して」、博物館に手紙を寄贈したのである。

 第二の手紙は、ヴラジーミルの日本人妻の姓を明らかにしているだけでなく、タカと子供のおフジの写真が同封されている貴重なものである。第二の手紙も、手書きのものだが、博物館でタイプ文におこされている。その訳文と同封された写真は以下の通りである。手紙は、ヴラジーミル宛ではなく、父親のメンデレーエフ宛である。

長崎
1894年7月18/6日[新暦18日、露暦で6日]
写真 タカとおフジ
Taka and Fuji

 拝啓 ドゥミートリイ・イヴァーノヴィチ[メンデレーエフの名前]様

 長い間ご無沙汰いたし失礼いたしました。お元気でしょうか。わたくしどもも、大事な可愛いおフジとともに息災で暮らしております。

 おフジはもう歩き始めました。本状とともに二人で[写した写真を]お送りします[右の写真]。そのかわり、あなた様の肖像写真をお送りください。

 ヴラジーミル・ドゥミートリヴッチからは11月に93年9月24日付けの巡洋艦アゾフ記念号で書かれた手紙を受け取りました。それからもうずいぶんと時間が立ちますが、彼は何も書いて寄こしません。ヴォロージャは、しばしばおフジを訪ねてくれる彼の友人を通しても一言も言ってきません。

 こんなにも長い間、ヴォロージャから何の便りもなく大変心配しております。それゆえ、もしわたしの大事なヴォロージャについての知らせをせめてあなた様の御返事でいただけますなら、大変ありがたく存じます。
 心よりあなた様のご健康をお祈りいたします。

敬具
タカ ヒデシマ

 これらの手紙の内容を検討しよう。

 まず、おフジは何年に生まれたのであろうか。第一の手紙を引用した作家グザーノフは、ヴラジーミルがニコライについて訪日した1891年5月に知り合い、そのとき妊娠したと考えているが、おフジの誕生を知らせる第一の手紙の日付が93年4月であることとの矛盾に気づいていない。グザーノフの説が正しいとするとおフジが生まれたのは、92年1月であろうが、子供の誕生と自分の母親の死という重要なことを一年以上も知らせなかったというのは、いかにも不自然である。第一の手紙を素直に読めば、おフジの誕生は、92年でなく93年1月と考えられる。したがって、91年5月にタカと知り合ったとしても、少なくとも今一度、92年中にヴラジーミルは長崎を訪れているはずだ。またタカの妊娠について、ヴラジーミルの子供ではないと言う噂も出ていたことが手紙からわかる。それで生まれたおフジがヴラジーミルと「瓜二つ」と言われてタカは喜んでいるのである。93年秋にはヴラジーミルは、ふたたび、アゾフ記念号に乗り組んでフランスを訪問しているから、ヴラジーミルは同号に91年以来、乗り組んでいたと推測できる。したがって、同号の92年の航海経路がわかれば、よりはっきりする。

 二番目に、第二の手紙からさらにタカの名字がヒデシマ(秀島?)であることがわかる。第二の手紙の日付は、94年7月で、その中でおフジが歩き始めたことを報告しており、一歳を過ぎれば歩き始めるのが普通だから、おフジが生まれたのやはり92年1月ではなく、93年1月だろうと考えられる。

 第三に、タカはヴラジーミルの父のメンデレーエフのことを知っていてそちらに手紙を出している点が注目される。先に引用したヴラジーミルの妹オリガの回想に「私の父は、その日本人の母親に、子供の養育費として、毎月一定の金額を送っていた」とあるが、この手紙をメンデレーエフが受け取って、月々の仕送りを始めていたと考えられる。メンデレーエフ自身、結婚前のドイツ留学時代に女優に熱を上げ、子供まででき、帰国後長らく送金していたから、息子の行動にある種の理解があったのだろう。

 また、タカの手紙を翻訳したシガとは、志賀親朋(1842-1916)のことにちがいない(なぜイニシャルがAであるのかはまだはっきりしないが)。彼は、長崎浦上淵村の庄屋の家に生まれ、幕末明治初期の代表的ロシア語通訳官として知られ、明治10年(1877)前後に外務省を辞めた後は国に帰り、後半生は長崎で土地の名士として過ごした。その彼が明治24年前後にタカの手紙を翻訳したとしてもおかしくない。

 これらの手紙は、日本にメンデレーエフの子孫がいる可能性があることを示している。引用した回想録の中でオリガは、この親子が、「東京の地震」で亡くなったと記している。彼女たちの本籍は、長崎であったのか、また秀島姓が多いといわれる佐賀県なのだろうか。ヴラジーミルの妹のオリガの記述が正しいとすると親子は東京に出てきていて、関東大震災にあったとも考えられる。オリガがそのように書く以上、第二の手紙が書かれた1894年(明治27年)以降も、かなりの期間、ロシアのメンデレーエフ家と日本の親子との間に何らかの連絡があった可能性があるが、今のところこれ以上はわからない。そもそも親子の本籍がどこにあったわからず、しかも戸籍の第三者による調査が事実上不可能な現時点では、偶然に関係資料が発見されるまでは、秀島親子側からの調査は困難である。

 そこでヴラジーミル側から、とくに彼が乗船して日本に来た戦艦アゾフ記念号を通して調べることにした。

 ロシアのサンクト・ペテルブルクにあるロシア国立海軍文書館には、ヴラジーミル・メンデレーエフの海軍勤務の勤務一覧表であるいわゆる軍歴表が残っている。1897年12月18日作成に作成されたもので、ヴラジーミルの退役に当たっての年金等の計算のための基礎資料として作られたものと思われる。
 この表にあるヴラジーミルの海上勤務記録が参考になる。それによれば、彼は1884-89年に主としてさまざな船で国内の航海の勤務をした後、1890年5月12日にアゾフ記念号に配属になり、1894年10月9日までこの船の勤務になっている。そのあと別の船の配属になった。軍暦表によれば、アゾフ記念号がロシア海軍太平洋艦隊に所属して太平洋海域で航海していたのは、1890年7月12日から1892年10月30日にかけてであり、そのあと同艦は地中海艦隊に所属して地中海海域勤務となった。

 同時期、1890-93年の海軍省の公式記録もこのことを裏付けており、同書によれば、アゾフ記念号は、1890-92年には太平洋海域におり、1893年にクロンシュタットに帰港し、以後は地中海海域にいた。
 また、ロシア国立海軍文書館には、アゾフ記念号の航海日誌も保存されており、いま注目している1890年―92年の三年間でいえば、91年の4月から12月、92年の1月から7月の分の航海日誌が同館にはある。しかし、これらはまだ見ていない。
 未見の航海日誌を除けば、アゾフ記念号が1890-92年にかけて太平洋海域にいたことは、わかるがいつ長崎に寄港したかまでは分からない。

 しかし、当時長崎で発行されていた新聞の記事から、同艦がいつ寄港したかを突き止めることが出来た。当時長崎では、日刊の『鎮西日報』と週刊の英字新聞The Rising Sun and Nagasaki Expressが発行されていた。
 問題の1891-92年については英字新聞のほうはほぼ全部が残っているが、『鎮西日報』についてはかなり欠号がある。両者の記事から得られる情報を総合すると、アゾフ記念号の長崎寄港は以下のようになることがわかった(日付は新暦)。

  1. ニコライ皇太子の日本訪問
    1891年4月17日-4月23日(7日間)上海からアゾフ記念号のみ先行して長崎着中国の呉淞にニコライ皇太子を迎え4月27日再び長崎に入港5月5日まで滞在し(9日間)鹿児島に向けて出港

  2. 「露国太平洋艦隊副提督男爵チルトフ中将」を乗せての来航
    1891年12月28日-92年1月24日(28日間)長崎に滞泊

  3. 日本海軍の「海軍大演習参観」のために来航
    1892年4月12日-5月10日(29日間)長崎に滞泊

  4. ヴラジヴォストークから出港、インド洋を経由してヨーロッパ方面に帰国する途中で寄港
    1892年7月18日-7月25日(8日間)長崎に滞泊
 以上からヴラジーミルは、秀島タカと1891年の暮か翌年の4月に知り合い長崎滞在の1ヶ月か2ヶ月をともに過ごし子供を設けた可能性が高い。フジが生まれたのが93年1月であったことはほぼ確実である。現在、史料から言えることはここまでである。それから先は想像を出ない。

 秀島タカとはどのような女性であったのだろうか。その立場として一番近いのは、フランスの作家ピエル・ロティ(Pierre Loti, 1850-1923)の「お菊さん」(ピエル・ロティ『お菊さん』野上豊一郎訳、岩波文庫、岩波書店、1929.5)ではないだろうか。上野一郎氏によれば(「「随想」幻想のお菊さん―ピエル・ロチと19世紀末の長崎」、『長崎談叢』(長崎史談会編)第62輯、1979年1月、1-12頁)、ロティ(本名Louis Marie Julien Viaud)は、明治18年(1885)にフランス海軍ラ・トリオンファント号の艦長(海軍大尉)として来日し、7月から9月にかけて長崎に滞在したおり、おかねさんという女性と生活をともにした。その経験を書いたのが「お菊さん」である。秀島タカは、お菊さんのような寄港中に士官たちと生活をともにする「現地妻」、「契約妻」のような存在だろうか。

 この時期に長崎に来たヨーロッパ人を父とし日本人妻の子供として生まれた混血児は多く知られている。たとえば、鎖国時代にオランダ商館に軍医として来日して日本の蘭学に多大の影響を与えたシーボルトの妻たきとその娘いね(1827-1903)、幕末政治にもかかわったイギリス商人グラヴァーの息子として生まれた倉場富三郎(1870-1945)、ロシアの外交官を父とする作家の大泉黒石(1893-1957)などが思い浮かぶ。最後の黒石の父は、「ロシアの皇太子が日本を訪れた時、その随身として日本に来、ある官吏の紹介で黒石の母と知り合った」(志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『九州人』37号(1971.2.1)、26頁)といわれ、フジとまったく同年生まれであることが興味深い。

 ここに記したのは、ロシアの化学者メンデレーエフと日本との細い糸のようなつながりを示す歴史の片隅のエピソードに過ぎない。しかし、辛うじて発掘された小さな事実は、明治日本とロシアとの間の、現在からは想像できないような深いつながりを存在を暗示するものではなかろうか。

 この一文を読んだ方で、秀島親子にかかわるなんらかの情報にお気づきの方は、この文章の冒頭のメールアドレスないし以下の住所にご連絡していただければ幸いです。

 〒152-8552 東京都目黒区大岡山2-12-1 東京工業大学大学院
 社会理工学研究科経営工学専攻 梶 雅範
 TEL. 03-5734-2270 FAX. 03-5734-2844

 なおこの小文で用いた史料と写真は、サンクト・ペテルブルグ国立大学付属メンデレーエフ博物館文書館から提供を受けたものです。ここで同館の協力に感謝します。


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