リレーエッセイ

第5回 - 1997.06.03
ぼくはいかにして悩むことをやめ、
横のものを縦にすることに専念するようになったか

――あるいは、ドヴラートフとの出会い――

沼野充義

 少々もたついて、バトンを受け取るのが遅くなりましたが、中村喜和先生の「ベローフ賛歌」から、こんどはセルゲイ・ドヴラートフという作家の話です。

 ベローフとドヴラートフでは、全然作風もものの考え方も違うので、二人の間にはほとんど何の接点もないように思える。しかし、無理にこじつけるわけではないのだが、この二人をつなぐ何かがないかと考えていて、ふと思い出したことがある。アナトーリイ・キムのことだ。彼はロシア文学の伝統と東洋的な世界観を融合させ、同時代の他の作家たちの追随を許さないような独自の境地を切り開いている朝鮮系ロシア語作家だ(ちなみに、最近、彼が編集長をつとめる『ヤースナヤ・ポリャーナ』という文芸誌が創刊された。創刊号には、キムが日本滞在の印象を生かして書いた『バッハの音楽に合わせてのキノコとり』という長編が一挙掲載されている。これは東京の精神病院を舞台とし、「声たち」と「キノコたち」が繰り広げる対話から織り成された、いかにもキムらしい哲学的幻想小説である)。

 最初から脱線が長くなったが、もう少しでドヴラートフにつながるので、ご辛抱を。このキムは思想的にも気質的にも、ベローフに代表されるようないわゆる「農村派」に近いところにいる(どうも、こういうレッテル貼りはあまり好きではないのだが)。だから、都会的でインターナショナルな感性のドヴラートフとは、あまり共通点がない。ところが、キムは一度、ドヴラートフに会って、彼から強い印象を受けているのだ。それは1980年代の末にリスボンで開催された国際ペン・クラブの大会でのことだった。そのときの印象をもとにキムが書いた、不思議な味わいのある短編小説が「コサック・ダヴレート」である(有賀裕子さんによる邦訳がある。今福龍太他編『夢のかけら』〔世界文学のフロンティア第3巻〕、1997年刊、所載。ぜひ読んでみてください)。「ダヴレート」という主人公の奇妙な名前は、じつは「ドヴラートフ」を変形させたものだということを、ぼくはキム自身から昨年の夏にモスクワで聞かされて、驚くと同時に、なるほどと思ったのだった。たしかに、何度も転生しながら世界をさまようダヴレートの悲劇的な姿には、ドヴラートフのおもかげがある。ドヴラートフと言えば、軽いユーモア作家と見られがちだが、キムは彼の姿になにやらとても悲劇的なものを感じたのだという。ドヴラートフが病気のため亡命先のニューヨークで亡くなったのは1990年のことだから、キムが彼に会ったとき、ひょっとしたら死相のようなものがすでに現れていたのかもしれない。

 ようやくここで、話はドヴラートフのことになる。彼の『わが家の人々』は、何を隠そう(いや、もう隠しようがありませんね)、ぼくの翻訳で成文社より刊行の予定になっていて、すでに「近刊」という広告を目にした方も多いのではないかと思う。それが、どういうわけか、いまだに出る気配がないのは、もちろん成文社が悪いのではなく、ひとえに訳者の信じがたいほどの怠惰のせいです、はい。なにしろ、日本語には「横のものを縦にもしない」なんて言い方もあるほどだが、ホンヤクという仕事はたしかに横のものを縦にしなければならない。これはちょっとくたびれる。だいたい、ふだん、授業を終えて(こう見えても、いちおう、大学教師なもので)椅子から腰をあげるとそれだけで疲れてしまい、早く家に帰って翻訳にいそしもうという決意もどこへやら、ついつい寄り道をしてビールなどを飲んでしまうと、今晩はもう仕事はよそう、なんてことになる。こんな怠け者では、いつまでたっても、翻訳が完成するわけがない……。

 などと、調子に乗ってくだらないことを喋りすぎたかもしれない。そうそう、もう一つ、ここで告白しておかなければならないことがある。ぼくは「横のものを縦にもしない」怠け者であるだけではなく、じつは嘘つきでもあるのだ。いま書いたことは、全部、でたらめです。数少ない熱烈なドヴラートフ・ファンの皆さん、どうかご安心を。『わが家の人々』の翻訳は、本当に、もうすぐ完成いたします。

 しかし、嘘つきは、ぼくだけではない。ドヴラートフという作家も、相当な嘘つきである。それは自伝的に書かれたように見える彼の小説に、伝記的事実とは符合しない虚構がかなり織り込まれていることからもはっきりわかる。ドヴラートフはまた、一口話(アネクドート)も大好きで、数多くの文壇エピソードの類を書き留めて残しているが、実際の出来事を記録したように見せかけた「アネクドート」にしても、純然たる創作であることがかなり多いのではないか、とぼくはにらんでいる。

 たとえば、ロシアの著名な文化人に関してドヴラートフが収集したアネクドートを、マリアナ・ヴォルコヴァによる肖像写真と合わせて一冊にした『ブロツキーだけじゃない』という、とても楽しい「アネクドート+写真」集があるのだが、ここには、現代ロシアの吟遊詩人として名高いブラート・オクジャワをめぐる次のような挿話が収められている。

 「1970年代のことだった。ブラート・オクジャワが満50歳になった。そのとき、彼は体制側から睨まれていた。『文学新聞』にも50歳の誕生日を祝う記事が出なかったのだ。
 ぼくは個人的な知り合いでもないこの詩人に、祝電を送ることにした。そのとき考えついた文面はあまり普通とは言えない、こういったものだった――『少年兵よ、達者で!』。これは彼の初期の小説のタイトルだったのだ。
 1年後に僕はオクジャワと知り合う機会があった。そのとき、電報のことを聞いてみた。普通ではない文面だったから、きっと覚えくれているに違いないと思ったのだ。
 でもそのとき判明したのは、オクジャワが誕生日に100通も祝電を受け取ったということだ。そしてそのうち85通が『少年兵よ、達者で!』という文面だったという。」

 どうです、オクジャワの人気が旧ソ連でいかに絶大だったかをよく示す、とてもいい話じゃありませんか。好きなエピソードなのでこれが記憶に残っていて、ぼくは何年か前にオクジャワ本人に会ったおりに、ドヴラートフの書いていることは本当でしょうか、とたずねてみた。すると、オクジャワは狐につままれたような顔をして、あっさりとこう答えたのだった。「いや、そんな電報は一通も受け取った覚えがないな」。つまり、われわれはドヴラートフにすっかり一杯喰わされていたことになるのだが、しかし、彼の一口話が憎いのは、オクジャワがどんなにソ連の読者に敬愛されていたかを知っている者にとっては、これがいかにも「ありそうなこと」に思えるからだ。

 もっとも、昨年の秋に来日した批評家のアレクサンドル・ゲニスに聞いてみたら、少なくともゲニスが実名で登場するアネクドートに関しては、ドヴラートフはまったくの真実を伝えているという。そうだとすると?…… ドヴラートフの書いていることは、どこまで本当で、どこからが嘘なのか? 「いや、上手に語られたものは、すべて真実なのさ」と語りかけるドヴラートフの、ぼそぼそとした声が響いてくるような気がする。

 そう、ドヴラートフの声は印象的だった。彼の生の声を一度だけ聞いたことがあるのだ。つまり、生前の彼に一度だけ会ったことがあるということ。ちょっと子供っぽい自慢のように聞こえるかも知れないが、日本のロシア文学関係者で生前ドヴラートフに会ったことがあるのは、たぶんぼくだけだろう。いや、それどころか、その頃日本人でドヴラートフの作品に親しんでいたのは、ひょっとしたらぼくだけだったかもしれない。もちろん、作家に会ったことがあるからといって、それだけでどうこうというものでもないはずだが、「生身のドヴラートフを見たのは、きっとおれだけだよ!」とつい言ってみたくもなる。ドヴラートフとはぼくにとってそんな作家なのだ。

 それは1982年、ロシアや東欧からの亡命作家を集めてボストンで開かれた国際会議の席上だった。ソ連から亡命してニューヨークに住んでいたドヴラートフは、英語はお世辞にも得意とは言えなかったのに、その会議ではなぜか英語で報告をすることを選んだ(報告はロシア語でして、通訳を頼んでもよかったのだが)。髭面の大男が額に汗を浮かべながら、たどたどしい英語で、亡命ソ連作家としてアメリカで暮らすのはどういうことか、語っていく。聴衆はその内容よりも、ともかく英語そのものにはらはらし、報告が終わるとほっとして、安堵の拍手を惜しみなく送ったものだ。

 会議の休憩時間にロビーでドヴラートフをつかまえて、ちゃっかりサインをねだった。彼はもともとロシア文学には珍しい、飄々たる軽妙なユーモアと柔らかなアイロニーの持ち主なのだが、日本語なまりの強い妙なロシア語を話すアジア人が、アメリカでもまだ有名とは言えない自分の本を読んでいるということを知ってもにこりともせず、苦虫を噛みつぶしたような顔のまま、「ロシア文学への愛に感謝をこめて」という真面目くさった言葉を扉に書いてくれただけだった。彼と会ったことがあると言っても、じつはこれだけのことだ。

 その後ハーヴァード大学の図書館の蔵書を調べていると、もっとずっと面白い書き込みがあることに気づいた。以前ドヴラートフが大学を訪れたときに、たぶん図書館員に求められて書き込んだものらしいが、『妥協』という彼の著書の扉に、サインとともに、「読んで、羨んでくれ、おれはソ連市民だ!」という言葉があったのだ。これは西側にソ連のことをこれ見よがしに誇ろうとした革命詩人マヤコフスキーの詩句からの引用だが、可笑しいのは、「ソ連市民」の前に「以前の」という形容詞が挿入され、最後に「マヤコフスキー、注ドヴラートフ」という注記が書き足されていたことだった。亡命作家としての自分の位置をアイロニカルに示した、いかにもドヴラートフらしい気のきいた台詞である。

 ところで生前のドヴラートフの著作は、ソ連では「亡命作家」としてもちろん禁止されていて、読むことはまったくできなかった。しかし、いまではその彼の作品もロシアで、たびたび出版され、人気を博している。最近、『スタース』という雑誌をながめていたら、「過大評価されている作家ベスト10」というランキングがあって、ド